第8章 気持ちよすぎる

杉浦杏奈は、灰原仁司の背中が廊下の角へ消えていくのを見届けると、手の傷口をぎゅっと押さえた。

また一つ、借りを作ってしまった。

深く息を吸う。すぐに踵を返し、階段室へ入り、足早に下へ降りていく。

1階のゴミ箱の前を通りかかったとき、捨てられていた花束をさっと拾い上げた。そのまま入口に立ち、フロア案内を見ているふりをする。

杉浦陽向は車を降りるなり、花束を抱えて困ったように立っている杉浦杏奈を見つけた。

「杏奈? 先に帰れって言っただろ」

「陽向兄さん」

杉浦杏奈は振り向いた。

「美雪のことがどうしても気になって。でも、どの病室か忘れちゃって」

杉浦陽向は、少し萎れた薔薇に目をやると、杏奈の肩をぽんと叩いた。口調もいつもよりわずかに柔らかい。

「ようやく妹を気遣う気になったか」

杉浦杏奈はおとなしく目を伏せ、何も答えない。

杉浦陽向は手を引っ込めると、表情を引き締めた。

「杏奈、お前も美雪も杉浦家の娘だ。杉浦家の娘に、一人たりとも傷がついていいはずがない」

「だから、美雪が落水した件は、真相がどうであれ、これ以上追及しない」

そこで一拍置く。

「それから、お前が言ってた酸素ボンベのことも見なかったことにしろ」

杉浦杏奈は、薔薇の棘に指を押し当てた。ちくりとした痛みが、意識を冴えさせる。

飼い慣らされた猫みたいに従順な声で、彼女は言った。

「分かりました、兄さん」

杉浦陽向は短く「ん」とだけ返し、そのままエレベーターへ向かう。

杉浦杏奈は無表情のまま、その後ろについた。

今の言葉で十分だった。

杉浦陽向は調べている。おそらく、杉浦美雪が仮死を装うつもりだという真相に、もう気づいている。

けれど、それが何だというのか。

杉浦家にとっては、真実より体面のほうが重い。

杉浦美雪の評判は、杉浦杏奈の潔白より大事。自分は黙って口をつぐんでいれば、それでいいのだ。

前世の自分は、そんなことも分かっていなかった。杉浦陽向は公正だと信じていた。証拠さえ突きつければ、自分に正しさを返してくれるのだと。

間違っていた。

薔薇の棘が爪の際に食い込み、ずきりと痛む。けれどそのぶん、頭は冴えていく。

エレベーターの扉が開いた。廊下はひっそりと静まり返っている。

杉浦杏奈は花束を抱えたまま、杉浦陽向の後について杉浦美雪の病室へ向かった。

杉浦陽向はノックもせず、いきなりドアを押し開ける。

病室の中の光景は、まるでそこで時間だけが止まったようだった。

藤原智彦はベッド脇に立っている。シャツの前ははだけ、ベルトもまだ締め切れていない。

髪は乱れ、頬には拭い切れていない口紅の跡。

ベッドの上では掛け布団がこんもりと盛り上がり、その下に潜り込んだ杉浦美雪は頭頂部しか見えていない。

空気には、生ぬるく濃い気配がまとわりついていた。

杉浦陽向の足が、入口でぴたりと止まる。

杉浦杏奈はその背後からひょいと顔をのぞかせ、絶妙な具合にきょとんとした表情を浮かべた。

「智彦? あなたも美雪のお見舞いに来てたの?」

藤原智彦は咳払いをひとつし、ボタンを留めながら言う。

「さっき美雪が息苦しいって言ったから、人工呼吸をしてたんだ。急を要したし」

「人工呼吸までできるなんて、すごい」

杉浦杏奈は花束を抱えたまま中へ入り、目いっぱい感謝の色を浮かべた。

「私、泳げないから、美雪をすぐ助けてあげられなくて……。あなたにまで面倒かけて、本当にごめんなさい。全部、私のせい」

そう言って、藤原智彦の腕に自分の腕を絡める。身体までぴたりと寄せた。

藤原智彦の身体がびくりと強張った。

腕に押しつけられる柔らかな感触。少し目を落とせば、杉浦杏奈の整った顔がすぐそこにある。

今日、自分たちはあと一歩で最後までいくところだった。

その記憶が蘇った瞬間、下半身が勝手に反応した。

顔を赤くしながらも、杉浦陽向の手前、彼は冷たく言い放つ。

「杏奈、離せ。みっともないだろ」

「やだ」

杉浦杏奈は唇を尖らせた。

「婚約者の腕を組んで、何が悪いの?」

ベッドの上では、杉浦美雪が布団をぎりっと握り締めていた。爪が掌へ食い込む。

智彦の名を呼びたい。今すぐ出ていけと言いたい。

けれど、声は出せない。

布団の下の自分は、何も着ていない。

杉浦陽向の視線が、藤原智彦と杉浦杏奈の間を往復する。だが何も言わなかった。

杉浦杏奈は藤原智彦の肩にもたれかかり、腕の内側を指先でくるくるとなぞる。

「智彦って、本当に優しいね。妹によくしてくれて。私、ちゃんとお礼しないと」

藤原智彦の呼吸が乱れ始めた。

杏奈の言葉のせいじゃない。

陰茎がむず痒くなった。次の瞬間には、息がうまく吸えない。喉を何かに絞め上げられているみたいで、空気がわずかにしか入ってこない。

何か言おうと口を開く。だが、ひゅっと掠れた音が漏れるだけ。

顔色が見る間に赤くなり、それがどす黒い紫へ変わっていく。

藤原智彦は杏奈を突き飛ばすように離れ、よろめきながら二歩後退した。片手で自分の喉を掴み、もう片方の手でベッドの足元の柵に縋る。

膝ががくんと崩れ、その場に崩れ落ちた。

喉の奥から漏れるのは「ひゅっ、ひゅっ」という異様な呼吸音。目の焦点も、もう合っていない。

「智彦? 智彦、どうしたの?」

杉浦杏奈はしゃがみ込み、必死なふりで彼の肩を揺さぶった。

「ねえ、やめてよ、怖がらせないで!」

ベッドの上で、杉浦美雪の瞳孔がぎゅっと縮む。

藤原智彦の肌に、赤い発疹が浮いていた。

発疹。呼吸困難。喉の腫れ。

アレルギーだ。

藤原智彦はラテックスアレルギーだった。だから二人で使うのは、いつもポリウレタン製のコンドームだけ。

そこまで思い至った瞬間、杉浦美雪は弾かれたようにベッドサイドの棚を見た。

コンドームの箱が、スタンドライトの脇に置かれている。さっきは素材まで見ていなかった。

今、はっきり見えた。

ラテックス。

頭の中で、ぶちっと何かが切れる音がした。

このレベルのアレルギーは、死人が出る。

杉浦美雪は布団を握り潰さんばかりに掴んだ。看護師を呼びたい。医者を呼びたい。ベッドから飛び降りてでも助けたい。

けれど服がない。

布団の下には何一つない。

まるでこのベッドに縫い止められたように、彼女は動けなかった。

藤原智彦の身体が痙攣し始める。

顔はもう赤を通り越して青紫。唇はぶくりと腫れ上がり、閉じることすらできない。唾液に血が混じって口角からだらだらと垂れ落ちる。

目は充血し、眼球は前へせり出し、瞳はどんどん濁っていった。

杉浦杏奈はしゃがんだまま、その顔が少しずつ変わっていくのを見ていた。

――まただ。

胸の奥で何かが弾ける。

ぞくぞくするような快感が、背骨のいちばん下から一気に駆け上がり、四肢の先まで痺れさせていく。

藤原智彦は、死にかけの犬みたいに自分の前へ跪いていた。顔は腫れ上がり、母親ですら見分けられないだろう。呼吸ひとつ、まともにできなくなっている。

杉浦杏奈は大きく息を吸った。

絶頂にも似た感覚が、全身を呑み込む。

叫びたい。

でも駄目だ。泣かなければならない。

「智彦、しっかりして! お願い、起きてよ!」

杉浦杏奈は藤原智彦の襟を強く掴み、彼が窒息していくのを見つめながら、押し寄せる快感に身を震わせた。

ぱんっ――

平手が、藤原智彦の顔を打つ。

「死なないで……お願いだから、目を覚まして!」

ぱんっ。

二発目は、もっと強く。

三発目。四発目。

腫れ上がった頬を打つたび、乾いた音が病室に響く。

ぱちん、ぱちん、ぱちん。

顔がますます膨れ上がっていくのを見ても、杉浦杏奈は止めない。掌が頬を打つ感触が、たまらなく心地よかった。

涙がぽろぽろと落ちる。声まで震えている。

「目を開けてよ! 智彦! 聞こえてるんでしょ!」

さらにもう一発。

頭が横へ弾かれ、口の端から血が滲んだ。

杉浦杏奈の身体はぶるぶると震えていた。手は止まらない。まるで刺激され、正気を失ったみたいに、目の前の男を救おうともがいているように見える。

けれど本当は、自分で分かっていた。

震えているのは、吊り上がりそうになる口元を抑え切れないからだ。

――最高。

「もうやめて!」

杉浦美雪が、とうとう耐え切れず、怒鳴った。

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